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1999年(平成11年)1月31日、プロレスラーのジャイアント馬場さんが亡くなられました。 ジャイアント馬場さんは1938年1月23日生まれの61歳、亡くなられる1か月前までリングに上がっていたジャイアント馬場さんの突然の訃報に日本中が悲しみました。 ジャイアント馬場さんは、身長は209センチ、体重は90キロ。代名詞ともいえる得意技は「16文キック」。ほかにも長身と大きい身体をいかした「32文人間ロケット砲」「脳天唐竹割り」など。 元々はジャイアンツの投手として活躍していたプロ野球選手。 入団2年目、2軍時代には12勝1敗、3年目には13勝2敗と2年連続で2軍の最優秀投手賞を受賞し、3年目の10月には1軍にて初先発。しかし、この頃に脳腫瘍による開頭手術を受けるなど、健康面に不安が残るようになり、 ジャイアンツを解雇されたあと、大洋ホエールズの採用内定を受けてはいたものの、風呂場で転倒し左ひじに17針を縫うケガをし、左手の指関節が動かない状態が持続したためにプロ野球を断念したそうです。 プロレスラージャイアント馬場誕生 プロ野球の世界から身を引いたのち、馬場氏はジャイアンツ時代に面識のあった力道山氏のもとを尋ね、力道山氏から命じられたヒンズースクワット100回を難なくこなすことで、その場で入門が決定。同期には、あのアントニオ猪木氏もいたそうです。 1960年4月に力道山氏のもとに入門した馬場氏は、1960年9月にデビュー戦をむかえギブアップ勝ち。1962年6月にはNWA世界ヘビー級王者に輝きました。 全日本プロレス旗揚げ 1972年10月に、馬場氏は全日本プロ・レスリング株式会社を旗揚げしました。 旗揚げ直後より、世界中のレスラーたちとヘビー級王座争奪戦を開始し、馬場氏が初代王者に認定され、馬場氏はその後、このヘビー級王座を38回連続で防衛することになります。 1980年には通算3000試合を達成しましたが、1985年にスタン・ハンセンに敗退しヘビー級王座から転落したのをきっかけに、タイトル戦からは身を退き、社長業やタレント業に比重を置き、自身は前座などで明るく楽しいプロレスをモットーに試合を続けておりました。 あの名曲とジャイアント馬場の関係 B’zの「ギリギリchop」は、プロレスファンの稲葉浩志さんが、ジャイアント馬場さんの死に哀悼の意を込めてつけたタイトルだそうです。
1998年(平成10年)、お笑いコンビ「パイレーツ」の持ちギャグ「だっちゅーの」がテレビ『ボキャブラ天国』を機にブレイクしました。 若手時代の爆笑問題やくりぃむしちゅー(当時は海砂利水魚)、ネプチューンらが出演していたこともあってか、今では伝説的なお笑い番組として語られている「ボキャブラ天国」。 その「ボキャブラ天国」の中期に大活躍(?)した彼女たちの持ちギャグ「だっちゅーの」は、新語・流行語大賞をとるほどまでに世間から注目され、お笑い芸人として一時代に名前を残すことになりました。 だっちゅーの 元はツッコミ役の西本はるかさん(向かって右)のただの口癖だったらしく、ボキャブラ登場時はギャグ扱いされてはいなかったそうです。 そこに、同じボキャブラ天国に出演していた「MANZAI-C」がその口癖をネタにしたあたりから、「だっちゅーの」がギャグネタと昇華しはじめ、「パイレーツ」の代名詞となりました。 ただ、ボキャブラネタの最後に二人で前かがみになり(大きい)胸を強調しつつ「~だっちゅーの」と〆る芸風は、ネタの評価は低く、並み居る強豪芸人の中では埋もれがちなレベルではありましたが、不思議とその「だっちゅーの」だけは世間で大流行しました。 だっちゅーののその後 「だっちゅーの」は、その年の新語・流行語大賞も受賞し、翌1999年にはゴールデン・アロー賞で話題賞を受賞、CDデビューや写真集なども発売し、一時はレギュラー番組も10本を超え、世間からも注目されていましたが、パイレーツ自体は2001年に西本はるかさんが女優を目指すためにパイレーツを脱退し、そのままパイレーツは解散されました。 2017年現在、向かって左側の立ち位置だった浅田好未さんは、自身のアパレルブランド「Affection」が成功し、現在は実業家兼タレントとして活躍中。私生活でも2007年に一般男性と結婚し2人の子供にも恵まれているそうです。 一方、女優をめざした西本はるかさんは、パイレーツ脱退以後は舞台やグラビアなどで活躍をされているそうです。(未婚) 出展:Wikipedia-パイレーツ(タレント)